敵味方は一瞬で変わる。生き馬の目を抜いた徳川家康のやり方
今川の悪事を過大に書きたて、現代にまで伝えている
■敵味方は一瞬で変わる
家康と三河武士団は、この好機を見逃しませんでした。
実質は、今川から織田に宗主国を乗り換えたとはいうものの、家康は形式的には独立します。そして旧宗主国である今川は、ただ図体がでかいだけの草刈り場になりました。
その後の家康は、18世紀のプロシア・ロシア・オーストリアの隣接列強によるポーランドの分割のごとく、今川の領土を分割します。実はけっこう世話になっているはずの今川を情け容赦なく侵略していきます。
1560年頃から70年くらいまでの約10年、家康は延々と今川分割に熱中しています。最初は武田信玄と組んで今川を分割していたのですが、やがて家康の勢力が伸びるのを嫌った信玄が北条氏康と組もうとします。もともと「武田が駿河、徳川が遠江を獲ろう」という話でしたが、武田が北条に「北条が駿河、武田が遠江」と持ち掛けたのです。二枚舌です。
そもそも、武田・北条・今川は三国同盟を結んでいるので、武田は今川はもちろん北条からしても裏切り者です。最初の段階でもちかけられたならまだしも、先に徳川と組んでから自分の都合でもちかけるとは何事か。
氏康は仇敵の上杉謙信と結び、あっという間に、上杉・北条・徳川で武田信玄を包囲しています。信玄としても、まさか北条が上杉と組むとは思わなかったでしょう。しかし、現実には、関東の地政学が一瞬にして変わってしまいました。
それ以前の北条と上杉は、アコーディオン戦争のごとく叩き合いを続けていました。北条が勢力を伸ばすと没落大名が謙信に泣きつく。謙信が出てくると北条は城にこもって耐え、奪われる領土を最小限に抑える。謙信が戦いに飽きて引き上げると、奪われた版図を取り返し、没落大名が……を延々と13年も繰り返していました。北条にとって上杉謙信とは、年中行事のごとく訪れる大災害に他ならなかったのです。だから、上杉との同盟を渡りに船と飛びつきました。
外交名人の信玄にしては、珍しい大チョンボでした。「それは侵略である」とは、こういう時に使うための言葉です。北条は武田家の裏切りをなじりながら、上杉と組みます。しつこいですが言葉は武器であり、軍事力は言葉によって動かされるのです。
家康はこうした状況を利用して、遠江併合を完成。本拠地も浜松城に移し、三河と合わせ2か国持ちの大名となります。日本で十指に入る大名です。この時点で2か国持ちの大名は(滅び際の大名は除く)、北から上杉・北条・武田・徳川・織田・毛利・島津だけです。もっとも、周囲には織田・武田・北条と、もっと強大な大名がいるので、あまり意味がない比較ですが。
こうして家康の今川侵略は成功しましたが、その後やることは決まっています。旧宗主国の悪魔化です。かくして、意外と大事にしてくれた今川の悪事を過大に書きたて、現代にまで伝えているのです。
(『プロパガンダで読み解く日本の真実』より構成)